第一期塾生最終レポート

横山真也 鈴木秀顕 金子吉寿 松浦隆 井上美雨


横山真也

食を通じて伝える日本のこころ

 

 今時代が求めているのはサステナブルな世界である。行き過ぎた資本主義はマネー至上主義の下に環境破壊や経済格差を深刻化させ、地球の限界を明らかにした。そこに新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大が追い打ちをかけ、いよいよ世界はサステナブルをいかに実現させるかの議論で百家争鳴の状況にある。先月開催されたCOP26(国連気候変動枠組条約第26回締約国会議)でも予定していた会期を延長しても合意内容がまとまらなかったという事実が、その深刻さを象徴している。

 こうした混沌とした時代に求められるのはリーダーではなく調整役ではないだろうか。各国の意見を聞き、高い視座から利害を調整し、お互いが歩み寄ることで未来へと続くサステナブルを実現できると説くのである。これはまさに日本のこころである『和をもって尊しとなす』であり、日本人だからこそ担える重責であると考える。

 日本は古来自然と共生することで持続してきた国である。そして日本は単一政体の国家としては世界最古の国であると知られている。自然を崇めこれまで綿々とその歴史と伝統を紡いできたサステナブルな国なのである。サステナブルであり続けている理由は何か、どう生き抜いてきたか、今まさに世界は日本のこころを求めていると言えよう。

そこで私は食を通じて世界に貢献することにした。日本に古くから伝わるうまみを引き出す技術を用い、世界中の野菜をおいしくさせるのである。地球の喫緊の課題は温暖化の進行を防ぐことで、中でも畜産業の温室効果ガスの排出量は全体の18%(2020年)と大きい。これを菜食へ切り替えることで世界のどこででも地産地消が促進され、フードマイレージ、つまり食料を輸送するために排出される温室効果ガスをも削減することができる。

 実は本塾に入塾中にこの考えに至り、すでに食品製造事業を興した。そして今月第一弾商品として植物性100%のタマゴを開発しテスト販売を開始した。これはベジタリアン(菜食主義者)やヴィーガン(動物性を摂らない)だけではなく、近年増加し続けている食物アレルギーをもつ子どもたち(乳児では約10%に至る)にも喜ばれている。またドイツの団体が主宰する食品新興企業育成プログラムに日本企業として初めて選抜され、欧州でも大きく注目されている。

 食を通じて日本のこころを世界へ伝える。私は自社の植物性食品を届けることで、「誰一人取り残さない」SDGsの観点も含め「和のこころ」を世界へ伝えてゆきたい。 


鈴木秀顕

これからの世界・社会に立ち向かう日本の夢(ビジョン)

 

経済一流、と呼ばれていた日本経済は、2010年に名目GDPが中国に抜かれてから一気に後退したと見ている。それから約10年経つ現代日本も巻き返しの傾向は見られることなく、反対に後退の速度はさらに進んでいるような気さえする。それは、敗戦後の金融資本主義のグローバル経済に傾倒し、欧米で進められていた大量生産大量消費型の社会に変容していった結果、あたらしいものやことがいいもので、古いものは悪いことという風潮が形成されていったことが多いに関係しているような気がしている。欧米のマーケティングが功を奏した形になっていったのだろうが、日本は、人の根底にある考え方まで変容させることによって、欧米の市場として形成されていったのである。それは、たとえば江戸時代を鎖国や士農工商といったことを外形上の悪いこととしてあげつらえ、それまでの日本の中に培われてきた本質的な平和な世界から、本質的な社会構造としては競争や戦争といった世界への誘いであったにも関わらず、教育やメディアを最大限活用することによって欧米の市場として構築されていくことになったのである。結果として、日本ではバブル経済を状態形成するほどお金があることはいいことであるという強い思いを形成し、かつどっぷりと日本人を金融資本主義の世界に浸からせることとなったのである。そこから産まれてきた現代日本人像は、まじめで丁寧、空気を読むという他から指摘された日本人像を受け入れ、まるでロボットがごとく文句も言わず死ぬまで仕事をし、お金持ちになることがよいことという憧れの世界像を醸成することになり、さらには欧米が裕福となるための市場として動かされることとなっていったのである。

 

しかし、その代償は大きかった。本来、人が生きていく上で大切なことは、平和な世界の中で幸福度が高い状態を作りつつ人生を全うすることのはずであり、そのために日本人は日本人特有の文化やこころを作ってきていた。そしてそれは、戦った上で勝ち取るものではなく、多種多様な人が協力しながら得ていくものであったのである。太古の昔より幸せな社会の中では、均一な人が求められるわけではなく、多様な人が共存する社会が形成されてきたのである。テキストの中で取り上げられた偉人の人たちは、現代人では変人と呼ばれそうな人であるが、どこか現代に使用される変人とは違う価値観で称えられてきたのである。そのような多様な人が存在していたからこそ、豊かな文化が生まれ、楽しい社会が形成されてきたという気付きを得た。新しいものを求めるのではなく、リソース(資源)を大切にし、当然の存在としてもったいないがある文化を形成してきたのである。現代日本ではこのもったいないをケチで片付けられることも多く見受けられるようになってきてしまった。それはまさに、欧米型の金融資本主義が身に沁みついてしまったからなのであろう。「もったいない」のこころはお金で勘定できるものではない。現代日本はすべてをお金で勘定されるようになってきてしまったのである。(ただし、GDPで換算されないものは金勘定から外される。)

 

この状態から脱却し、人間本来の生きる意味を持った生き方を高めていくためには、今まで良しとされてきた欧米型の金融資本主義の形ではなく、日本のこころをもった生き方や働き方をよしとするように考えることができる教育からやり直していかなければいけないのだろうと思っている。そのために地域リーダー育成スクール「ESDユニバーシティ」を各地に立ち上げるべく活動をしている。特徴としては、起業やイノベーションを軸とした座学のほか、OECDの教育カリキュラムでも認められた地域社会と深く関わりながら、PBL教育としての地域社会の課題解決を考えるディベートやそのディベートから生まれた活動を同時に進めていることである。地域課題解決をするための方策を考えるときには日本のこころが必要となり、日本のこころに自ら気付けるようなプログラムになるようになっている。それを日本全国の各地に展開しようと活動している。全国展開方法としては、2種類用意し、ひとつは独自の学校形態であるESDユニバーシティと、もうひとつはオリジナルのカリキュラムを既存学校の中に組み入れて展開するESDU認定学校という両方の形からの展開である。これら教育を継続的に展開していくことにより、グローバル社会の中にあっても他国や他人に依存することなく動いていくことができる自立した日本や日本人になってほしいと思っている。


金子吉寿

私がこれからの世界・社会に立ち向かう日本の夢・ビジョンは、世界中の人々が生命を輝かせ可能性を拓いて創造性にあふれた出会いを通じて縁と絆を育み創り出し続けることに貢献することです。自分自身と周りの人々、両者を含む世界がうまくいくこと、誰にとってもうまくいく世界を創り出すことです。世界のビジョン実現を誠実にサポートします。

 

私は、これまでの自啓共創塾で、和の文化・日本文化のこころ、縄文時代から連綿とつながる日本の源流を見てきました。現在は、職場が人工知能や機械に代替され産業構造に大きな変化が起きています。社会構造の変化はあっても人間の心は生命現象であり機械学習では乗り越えることができないものがあるとの考えが一般化しつつあります 。

 

私自身が、本塾の学びを通じて受け取った興味や関心から実践していく世界のための「日本のこころ」とは、主に次の①~⑥です。

①おかげさま、おたがいさま、もったいないの精神

“おかげさま”の“おかげ”は神仏の加護のという意味。他力によりうまくいったことを感謝する言動を発していきます。

“おたがいさま”一見違って見える両者とも実はよく見ると同じような状態におかれている、また、同じような事をし合っている。相手との共通のつながりを感じていくこと。

“もったいない”とは神仏・貴人などに対して不都合、不届きであること、物事を無駄にせず活かしていく。物の本質を大切にしていく、この世に何一つとして独立して存在しているものはないという「空」(くう)、「物事はすべて繋がって存在している」という「縁起」(えんぎ)の思想、当たり前ではなく有難く、私たちは「生かされている」という真実を意識し生きていきます。

②和の精神

和の精神は、たんに仲良くするということではありません。自分を押し殺して相手に合わせるということではありません。本来「和」とは、それぞれが独自に存在し力を発揮し、かつ調和がとれていることです。創造力の源となります。

③自然との調和

目の前の事象、対象のみに注目するだけではなく、その背景にも目を向け、すべての事象、現象は背景の万物とつながって存在している。宇宙、地球、人類の時空から将来の世界を見据え「いま、ここ」からビジョンに向けて自然と調和し永続的、持続可能な生活、社会を創り出し暮らすこと、世界が力をあわせて農業、林業、建築、教育や文化、健康、経済、地域社会のあり方を探究しエネルギー消費の過度な社会からエネルギー消費を最適化し少ない社会を創り出す社会と個人の課題に取り組み。どのように自然の豊かさを暮らしに取り入れていくか実践します。

④十方よしの全球経営哲学

私は和菓子屋営む家系に生まれました。祖父が話してくれた近江商人の商道に、「三方よし」があります。売り手よし、買い手よし、世間よしと三方すべてが喜ぶ商売をせよとの教えです。私はこれを「十方」に置きかえました。仏教でいう「十方世界」「敵をつくらず、味方をふやす」こと、本当に相手のことを考え、現世代だけではなく次世代以降も含めた喜び幸せの「十方よし」を探究します。

⑤金継ぎ

金継ぎは、欠けた器を生まれ変わらせる日本的な技術です。陶磁器の破損部分を漆によって接着し、金属粉で装飾して仕上げる修復技法。金継ぎの技術哲学のように世界の再生に貢献していきます。

⑥合気道

私は幼少から合氣道やっていました。合氣道は、武術でありながら、武力によって勝ち負けを争うことを否定し、合氣道の技を通して敵との対立を解消し「敵」という概念を無くしてしまいます。自然宇宙との「和合」「万有愛護」を実現するような境地に至ることを理想として「和の武道」「争わない武道」「愛の武道」「動く禅」とも評されています。また合理的な体の運用により体格体力によらず相手を制する点が特徴です。技の稽古を通して心身を練成し、自然との調和、世界平和への貢献を目指しています。

 

私自身のこれから取り組みとしては、世界と共に全球経営哲学を生活や事業を通じて拡げていく実践コミュニティを創ります。全球経営哲学のベースとなるあり方は次の通りです。

・世界を球体として(地球)としてメタ(高次元レベル)認知する思考法を実践する。

・世界の空間軸、宇宙、地球、人類の時間軸の中で自分自身の位置を理解する。

・自分自身と、地域、日本、世界の動き、様々な価値観を連動したものとして関わる。

・十方よしを、実践し自分、他者、両者を含む世界を大事にする。

・宇宙視点で人類全体の時空間を正視し、地球ビジョンからバックトラックで行動する。

・地球を経営する世界倫理と経済原理を確立しグランディングする。

・宇宙的視点から高次の課題解決を行う。

 

上記を統合知、統合能力、統合した生き方として実践し「日本のこころ」を体現したリーダーの出現を創り出します。企業や学校の人財育成システムを見直し、世界から評価される「日本型リベラルアーツ」を通じて「日本のこころ」に覚醒し世界で「日本のこころ」を実践していきます。


松浦隆

これからの世界・社会に立ち向かう日本の夢

 

 本塾で「日本のこころ」を学んできて、現段階では特に以下の点がその神髄ではないかと感じている。①神仏需の習合といった貪欲かつ器用に異文化を自分たちの環境や生活様式に合わせて取り入れていく逞しさ、②八百万の神といった概念に代表される自然崇拝から派生する、人と自然の対等な関係性による共生・共存の知恵、③(武士)道や禅の精神世界を基にした道徳文化、単なる工業製品ではないモノつくりに魂を吹き込む感性、④長らく植民地支配に苦しんだアジアにおいて欧米列強の植民地化を免れて、日露戦争での勝利でアジアの希望となった点、また太平洋戦争での敗戦からの経済大国となるまでの復興といった教訓に富んだ歴史を有している点、である。これらの特色から、日本だからこそできる貢献とは何かを論じていく。

 日本のこころを生かして、これから日本が世界の平和と安定に貢献できることを2つ提案したい。一つは、地球環境の劣化を食い止め、存続し将来の世代へ引き継ぐことである。江戸時代の日本程、今でいうSDGs的な持続可能な発展を可能にしていた社会はなかったのではないか、という研究もある。日本こそがこれからの時代にその経験値を発揮できる国である。2つ目は、経済的な格差が広がるにつれて、政治的・イデオロギー的な分断が一層進んでいるこの時代にあって、手を差し伸べ、仲介役を買ってでることで世界中の国々が地球市民として連帯と絆を深められるよう寄与することだ。昔、ユダヤ人を弾圧していたナチスをよそに、日本人はむしろユダ人の賢さに敬意を表し、支援手助けする度量の深さと倫理観があったことからも、日本人が世界の紛争の仲介役を買って出るだけの資質を持っていると信じている。

 上記2つの貢献目標を実現するために日本が取れる具体的行動指針は主に3つあると考える。1つは、経済的にもある程度の優位性を保つ努力を継続していくことである。日本円の競争力が弱まり、日本経済および国力が低下している現状は、このまま放置できない課題である。先に掲げたように、日本がリーターシップを発揮して世界に貢献する2つの目標を実現させるためにも、ある程度の経済力が必要である。具体的には、ものつくりを基調としつつも、中間部品だけではなく、世界中を席巻するような最終製品を世界市場に提供している米国アップル社や中国のファーウェイ社のようなビジネスモデルへの転換が不可欠だ。デザイン思考と付加価値を意識し、利益の最大化を図ることが求められる。

 次に、日本的な文化ルネッサンスの勃興による世界文化への貢献が考えられる。その昔、平安時代以降から江戸期にかけて世界中に多大な影響を与えた日本の芸術・文化の存在は今でも世界中の識者および芸術家の記憶に留まっている。葛飾北斎、夏目漱石、丹下哲郎などの作品といった、様々な日本的な文化価値が生まれては世界を魅了してきた。バブル期に経済的に裕福になった日本からは残念ながらそういった文化の発展や発酵はほとんど起こらず、ただ刹那的な快楽に興じて、やがてくるバブル崩壊までの短い春を謳歌したまでだった。そこで、伝統的文化・芸術を再度見直しつつ、現代でも注目を集めている日本的な価値を更に広げて開花させるような国民的な取り組みを国も企業も呼びかけ、支援していくことが理想てきである。空手・合気道・柔道などの武道、マンガ・アニメ文化、茶道や禅の精神性や浮世絵や北斎などの日本画といった価値を教育でも積極的に取り上げ、温故知新の流れを生み、国民の文化度を高めることが理想である。その結果、世界から賞賛され得る国となる。

 3つ目として、自分たちの祖先が辿ってきた真実の歴史を知り、自国を愛し、素直に自分たちの歴史を清濁併せ呑む姿勢を持つことが肝要である。日本が貢献し得る世界平和への道は、その前提として自国の文化・歴史に誇りと自信、過ちも併せて認識した上での謙虚さと自戒の念を常に持ち続けるバランス感覚が必要である。特に近現代史に対する国民の知識の圧倒的な勉強不足は戦後の教育の弊害として今も尚、課題であり続けている。先の大戦の戦後処理が75年経った今でも、どこか禊を済ませていない感覚を覚えるのは私だけであろうか。ドイツの戦後への反省と継続的な世代を超えた伝承は大いに参考にすべき事案である。平和の定義を誤解したまま日本国民は安穏と米国用心棒の傘の元暮らしてきた。これからは、そういったずるい生き方は通用しないばかりか、自身の魂や誇り、将来の子供たちのアイデンティティー、誇りを奪う悪循環へ直結する。

 以上のような国家ビジョンを国のトップが明確な言葉で伝える努力をして欲しい。美しい国を造る、といった概念的で具体的な指針が示されないスローガンではなく、なぜ我々日本人が、そういった使命にリーダーシップを発揮してこれから生きていくべきなのかという明白な理由を示し、「日本のこころ」を皆で再定義して国民の間で共有する機会を積極的に作って行くべきだと考える。

 私個人として、上記の様な日本国に近づけるためにもできることは3つあると考える。まず1つ目は、家族・同僚・近所の人々へ今まで以上に関心を持ち、気にかけて愛する努力をすることだ。個人でできなければ、国家・世界レベルでは、そういった呼びかけすら絵空事に終わってしまう。まずは隣人を愛するといった実行を伴う生活習慣の確立が不可欠だ。現在険悪な仲になっている日韓・日中関係だが、個人的な知り合いがおり、その人々との関係がある場合は必ずしもマスコミで報道されているようなお互いをののしり合ったり、すれ違い憎しみ合うといったこともかなり軽減され、相互理解と話し合う素地ができることは自分の経験談や多くの人の体験からも立証されていると感じている。

 また、私としては教育を通して日本人の誇りを取り戻すために、歴史、特に近現代史に真正面から向き合うような日本社会になるよう貢献していきたい。12月8日にひっそりと埼玉県入間市にある航空自衛隊の基地に、未だ多数の日本の兵隊のご遺体が埋もれたままの硫黄島からごくわずかであるが遺骨が帰還した。同月11日には、同島で日米合同で戦没者への慰霊祭が執り行われたという報道があったが、その報道からは重要度は決して高いとは言えないようなニュースの扱いであったことからも、この国の特に近現代史への軽視が伺える。

 そして最後に、大学時代にかじった空手を再開し(または新たに合気道に挑戦)、子どもたちが修練する環境を整えてあげることである。空手、合気道や剣道などの武道には多くの日本的な精神文化と、戦後GHQのWGIPによる日本精神の撲殺から始まり、現代の画一的な教育で失われつつある身体知が凝縮されている。それらを再度見直すことで、まずは個人レベルから世界をリードするだけの気力と体力、強靭な肉体と精神を育むことこそが、世界を平和へ導くリーターシップを発揮するにふさわしい国民国家の土台になると信じている。


井上美雨

これから社会にたち向かう日本のビジョン

 

私は正直日本のこころが何か正確にはわからない。ただ、日本のこころとは多面的であり、時代の変化に伴って移り変わっていいモノだと思う。でも時折、歴史を振り返って私たちが失っちゃいけないものは何かと考え、意図的に保護することも大切である。では私たちが失ってはいけない日本の心は何であろうか。私は曖昧さと調和の融合であると考える。それは今でも健全だよ、と考える人もいるかもしれない。本当にそうであろうか。現代の私たちがいう曖昧さは、言葉にすることで生じる煩わしさから逃げるための手段で、現代の私たちがいう調和は表面上の取り繕いのことを指していることが多い気がする。だからこそ、今の日本の社会はかつてないほど分断している。曖昧さと調和は最大多数の顔色を伺うためにあるのではない。これらは、本当の意味で多種多様な人が自分と多者(他者)の差異を自覚する必要なく自然体で過ごすために存在するのだと思う。曖昧さは言語化出来ない美しさの存在を認め、差異に執着しない心持ちを可能にする。調和は会議における予定調和な結論を指すのではなく、水面に浮く色素のように自然と混ざり合い、共存しマスターピースを完成させる。現代を生きる日本人はこれを目指さないといけない。たとえば、日本は発達しょうがいとそれを持たない人の差異が明確化されている。差異が明確化されているからこそ、支援学級と普通クラスに分断され、そのふたつがあまりにも極端なのでどちらにも当てはまらず、取り残されてしまう子供たちが存在する。この子たちにあたらしい学校を作って居場所を提供するのは対処療法にすぎず、根本解決にいたらない。根本解決は私たちが発達しょうがいをユニークな個性の一つであると自覚し、日常生活において、差異をラベル付けせず社会にブレンドインできるようサポート体制を確立する事だと考える。発達しょうがいに関わらず、多様なあり方を抵抗無く肯定する社会の成立は、私の定義する曖昧さと調和の融合なしでは考えられない。だから私は日本のビジョンとして曖昧さと調和の融合を提案する。そしてその実現のためには、違いに人々が着目する必要がなくなるようなサポート制度が必要である。私はそのサポート体制を確立するために発達しょうがいと人間の発達について、脳科学と心理学の分野から追及するという以前からの夢を行動に移していきたい。